『天気の子』に想う愚かさと、主人公に関する仮定
若さとは、愚かさとほぼ同義である。
その愚かさは賞賛すべきものではないんだけど、見る人の多くを惹きつけて、嘲笑させないだけの力を持っている。それは、かつての自分があの愚かさを持っていたことを思い出させるから。そして同時に、「今のお前はどうなんだ」と問いかけてくるから。
以下、前半は映画の感想、後半は仮定をからめた話という構成で書きます。ネタバレ等、いっさい配慮していません。
あと小説は読んでません。そういえばパンフも買ってないと今気づいた。やばいな。
まずは感想を。
総合的にみて、大満足だった。とにかく満足感がすごかった。まさに期待したボーイミーツガール。
まずは雨と水の表現。上映時間じゅう存分に味わうことができて、なんかもうありがとうございます! という感じだった。今作の雨模様はどんよりと灰色に曇った薄暗い景色が多いんだけど、それでも文句なしに美しい。この狂気の沙汰と言っても差し支えない緻密な視界をつくりあげるために、どれだけの熱量と時間が注がれたのだろう。そういったことに想いを馳せて、涙が出た。
もちろん光の表現も素晴らしかった。そう! それが見たかったんです!ありがとうございます! という気持ち。
とくに花火大会が最高だった。あの高さ、あの角度でカメラをぐいぐい回して見る花火は本当に綺麗で「お見事!」という印象。あそこまで寄って撮るのって現実だとドローンの役目になると思うんだけど、日本の実写映画じゃまず無理だよなあ。リアルな風景を人工で描くことの強みが存分に活かされているなー(ぐぐったら、海外で撮影されたものがヒットした。迫力がすごい)。
同時に、花火を見下ろす視点が主人公たちの気持ちとリンクして見えたのがすごくよかった。
これはこの作品に限った話じゃないんだけど、地面に立って見上げるというごく一般的な視点から見ると、花火ってそれはそれは大きく見えるじゃないですか。その背景にある、広く高い空の一部のように感じられるから。だから、花火をあたかも人知を超えた自然現象のように感じて、たまに恐ろしくなる。火花もろとも空が落ちてくるような錯覚をおぼえる。
でも、高い位置から見下ろすと、自然、花火はカメラ(視線)の高さ以下に収まる。そのために、「ヒトの制御の範疇にある」という印象がものすごく増すんですよね。背景も、ビル群や平野といったヒトの生活圏になるし。少なくとも、首をそらして見上げるときのような恐ろしさは感じなくなる。
加えてこの作品の花火は、陽菜が天気を晴れにしなければ咲くことがなかったという文脈を持ってる。ひとりの少女が「自然」の代名詞である雨雲を払い、「社会」の代名詞である大人たちに感謝され、「市井」の代名詞である一般客にはとうてい入れない高層ビルの屋上から花火を見る。
世界は彼女の手の中にある——帆高と陽菜があの瞬間にそう感じないわけはないでしょう。あのとき確かに陽菜は神に近い存在で、紛れもなく巫女なんですよね。
若者が持つ根拠のない全能感と言われれば、世の多くの大人は大なり小なり覚えがあるんじゃないかと思う。自分もそうで、中学生のときなんかは自分たちが世界で最強だとごく自然に「知って」いて、親友と「まあうちらが一緒ならなんでもできるっしょ」とか、当然のように話していたし。
でも、自分がかつて持っていた全能感は、帆高と陽菜のそれとは違う。彼らの全能感には、根拠がともなってしまっているから。天気を変動させられる、なんて途方もない規模のチカラで自己肯定感を得てしまったら、自分たちが社会的に庇護される立場であることなんか、そりゃあ受け入れがたいだろう。
でも厄介なことに、神に近い存在である陽菜と、彼女に寄り添う帆高は、若い。若いがゆえにどうしようもなく愚かで危なっかしい。映画館を出たあとに何度「愚か……愚かだなあ……」って言ったかわからない。
対して、作中の大人たちは正しい。圧倒的に、極めて正しい。
凪と2人きりで生活していることの危険性を刑事に指摘された陽菜が、「でも誰にも迷惑かけてない」と語気を強めるシーンがいい例。あの年齢の子どもが2人暮らしなんて、考えるだけで危ない。見てられない。そもそも、子どもの言う「誰にも迷惑かけてない」がどれだけ愚かな言葉であることか。どう考えても刑事の言うことが全面的に正しい。でも陽菜たちにはそれが分からない。分かりたくないのかもしれない。
苦しくなったのは後半。帆高、陽菜、凪の3人がやっとの思いでラブホテルの部屋をとり、室内に入るやいなやへたり込んだシーン。銃刀法違反で警察から追われる身となった帆高に、凪が「でもそういうのかっこいいじゃん」と笑いかける。陽菜も「ウケるね」と応じて、3人で楽しそうにけらけら笑う。
いや、愚かすぎるでしょう。映画館のシートで頭を抱えそうになった。この期に及んで事の重大さを理解できていない。こんな(という言い方を敢えてする)子どもたちの手中に世界の運命があるなんて、世界にとっては絶望的ですらある。凪がそれまであまりにも大人びた言動をとって、年上の帆高から「先輩」なんて呼ばれているものだから忘れかけていたけれど、『かっこいいじゃん』の一言で現実に引き戻された。そうだ、凪は——この子は、まだ小学生なんだ。
そして同時に思う。帆高も陽菜も、若い。世界を背負うにはまだ早い。
派手な騒ぎを起こして、警察と追いかけっこを繰り広げた末にたどり着いたラブホなんて、誰に言われるまでもなく袋小路でしかない。どれだけ心が安まろうと翌朝には出て行かないといけないし、足だってすぐつくに決まっている(実際ついた)。それが容易に想像できるから、ホテルでの楽しげな描写は儚くて、せつなく映る。
ここで、帆高が翌朝のことを予期した表情でも見せるのかと一瞬思ったけれど、そんなことはなかったのがまた、ねえ。全力で「自由」を謳歌している、謳歌してしまっている。そりゃそうだ、帆高が後先考えるような人間だったらそもそもこんなことにはなっていない。
帆高が「退職金」で買うのは、からあげと焼きそば、たこ焼き、カップラーメン。それらを3人で「今夜はごちそうだ」と喜びながら食べる。圭ちゃんから「親元に帰れ」と持たされたお金で、ファストフードを——この対比も大人の正しさと子どもの愚かさを端的に表していて、苦しい。怒りとか笑いとかじゃなくて、苦しさがこみ上げる。
でも、苦しいんだけど、否定はできない。3人にとっては目の前のからあげやカップラーメンが大切で、目に見える範囲がすべてで、手の届く範囲が精一杯だ。世界を手にする天気の巫女たちの「世界」は、半径50cmにしかない。
若さゆえの愚かさを肯定も否定もできなくて、ただ彼らが納得できる終着地に至ることを願いながら見ていた。
ラストは、ハピエン厨の自分も納得のハッピーエンドでした。
というか、陽菜だけが消えてしまって、二度と雨の降ることのない東京で帆高が生き続けるとか普通にありそうだなと思いながら見てたので、「えっ超絶ハッピーエンドじゃん! 幸せ!!!」と驚愕したレベル。3年間いちども雨が止んでいないという事実を踏まえて未来を想像すると気が重くなるけれど、そんなことは関係ない。だって帆高と陽菜には目の前がすべてで、2人が一緒にいることが正解なんだから。それでいい。ボーイミーツガールとはこういうことだ。
ちなみに自分が想像していた、陽菜だけ消えるエンドの詳細。陽菜は「晴れ」そのものとなって世界を抱き見守る存在に。帆高は毎朝「今日こそは」と祈りながら目を開けて、窓の外に広がる気持ちいい青空を見るたび絶望するんだけど、同時に晴れた空は「陽菜とともにある」ことの証でもあるので、これで幸せなんだ、これが幸せなんだとどうにか信じて生きていくといった感じの結末でした。
やや話が前後するけれど、クライマックスからラストにかけてのモノローグはまさしく新海誠のそれという感じで「そうそうこれだよこれ!」って嬉しくなった。新海誠のモノローグは新海誠にしか書けない。好き。最高。
ここからは、仮定を含んだ話。真相は小説を読めば分かりそうだけど、まずは初見の印象のまま自分でまとめておきたいのでこのまま書く。
予告編の『100%の晴れ女!?』を聞いたとき、じゃあ主人公の帆高は100%の雨男なんだろうなと思ったんですよ。
100%の雨男が100%の晴れ女と出会い、恋に落ちる。けれど彼らのチカラはぶつかり合い反発し合う。ふたつの「100%」は相容れず、世界の天気が狂い始める。世界が彼らを引き離そうとする。けれど(だから)彼らは彼らのために、『世界の法則を変えて』しまうのだろうなあ……などなど。
絶対に相容れないふたりが必死で互いに手を伸ばす物語が大大大大——と「大」をいくら付けても足りないくらい——大好きなので、こらやばいな!!! と意気込んで観に行ったら、帆高が雨男だとはついに明言されないまま終わってアレーッ!? てなった。ははは。
でも、やっぱり帆高は雨男のチカラを持っている(いた)んじゃないかと思うんだよな、100%ではないにしろ。
島の回想シーンで、追っても追っても追いつけない晴れ間が出てきたでしょう。これってそういうことじゃないかなーと読解しながら観てた。どうしても触れられない「晴れ」という光。まだ出会っていないふたり。
この仮定は、帆高が家出した動機にも繋がる。
「島の閉塞感から逃れて自由になりたい」というだけでは、その後の「絶対帰りたくない」という頑ななまでの意志に対してどうにも弱すぎて、釣り合わない気がしてたんですよ。平たくいうと、「そんだけの動機であれだけのこと、するかあ?」と。ただ、その釣り合わなさが彼の——ひいては若者の——愚かさをより際立たせているなとも感じたので、納得はしたつもりだった。
けど、帆高が雨男だったとしたら話は変わるというか、一気に説得力を増すよなーと思ったんですよ。帆高が雨を呼び寄せてしまう性質を持っているなら、自分にはどうあがいても引き出すことのできない「晴れ」に惹かれるのはもはや必然。しかも彼は島暮らしで、晴れ間を追いかけるには物理的な限界がある。なぜかとても気になって追いかけずにいられないものは、いつも海の向こうへ逃げていってしまう。追いかけたいのにかなわない。呼び止めたくても自分にあの存在を呼ぶ力はない。海さえ越えれば、あの向こうに行ければ。
彼が求めた「自由」は、閉塞した暮らしからの解放だけではなくて、自身の「雨男」という体質からの解放も含んでいたのかなと思った。もちろん帆高がそう自認していたわけではなさそうだけど、逃げる晴れ間を追いかけ見送るうち、無意識に海の向こうの東京を「晴れ」=「雨からの解放」の象徴としてとらえるようになっていたんじゃないだろうか。
冒頭、船上で遭遇した豪雨に帆高が大喜びしているのもそう。「晴れ」に惹かれて家出までした帆高だけれど、その本質は雨男なので、やっぱり雨に心は躍るんじゃないかな。だってあそこめちゃくちゃ楽しそうだったじゃん。他の乗客はあれだけ嫌がっていた豪雨なのに。
家を出て「雨に濡れる自由」を手に入れたことへの歓喜、という意味合いも普通にあるんだろうけど、個人的には帆高=雨男説を推したい。
思わせぶりに出てきた不思議な魚と、滝のようなゲリラ豪雨をもたらす謎の塊。あれらものちのち帆高のチカラの一端なんだと判明するのかと思ったんだけどなあ。東京に降り続く雨が普通のものではないことを示す、という役目は買っていたけど、結局映画の中ではそれ以上詳細に語られなかったよね? うーむ。
映画館を出たあと、連れと天ぷらを食べながら感想を交わし合ってたら、連れが「雲から落ちるとき、帆高が陽菜に手錠をかけるのかと思った」って言っててさ。そのときは「あっそれいいな……いいね、うん」とわりかし静かに反応したんですけど、後になって考えれば考えるほどしっくりきて、今はむしろなんでそうしなかったんだ!? という気持ちにすらなってる。
帆高が警察に押さえ込まれて手錠をかけられるというのは、子どもが社会という大きなものに縛られる、捕らわれる、自由を失うということのメタファーだと思う。自由を求めてたどり着いた新天地で、逮捕というこれ以上ないような形で自由を奪われる。そこまでいくともう、肉体的にも法律上も子どもである帆高になすすべはないんですよね——大人に助けてもらうという道を除いては。
あそこで圭ちゃんが帆高を助けたことは、帆高にとってものすごく大きな救いだったと思うんですよ。社会はいつだって自分たちを理解しないまま縛り付けようとしてくるけれど、中には理解してくれる、理解しようとしてくれる大人もいて、だから社会に「生きてみるだけの価値はあるかもしれない」と思える。その象徴が、片側だけ解放された手錠。
でもその価値を、救いを、彼は陽菜の手をつかまえるために使っちゃうわけですよ。圭ちゃんが自分の娘にかかわるいろいろなものをなげうって、正論を捨てて社会に殴りかかって、そこまでして縛られぬようにと逃がしてくれたその手錠で、好きな子と自分を縛るわけですよ。最高だ。「退職金」でラブホに泊まりファストフードを買う、あの場面ともつながる。最高だ。
地上に降り立った帆高と陽菜が手錠で縛りつけた手を繋いで刑事たちの前に現れて、幸せそうにパトカーに乗り込むシーンが今かなりクリアに脳内で再生されてる。そういうの好きなんです。
想像や「ぼくのかんがえたさいきょうのハッピーエンド」も交えたけれど、冒頭に書いたとおり総合的には大満足です。観ようか迷ってる人がいたら間違いなく背中を押す。そのくらい好き。
もうちょい欲望に忠実な脳直感想もあるけど、そっちは友人とワイワイ言い合ってるだけで満足しつつあって、こんな感じの長文にまとめるには至らなさそうなんだよな。書かないならもうここで一言にまとめとくか。最高のボーイミーツガールアンドショタでした! 以上です。