2023-03-11
見知らぬおばあちゃんからお花をもらった日。
たいていは電車で通勤しているんだけど、土日ダイヤの電車は少し早すぎるか、少し遅すぎるか、という選択肢しかないので、消去法で自転車を使うことも多い。
この日も自転車を選んで、交差点でぼんやり信号待ちをしていたら、道路の向かいからおばあちゃんがてくてくと歩いてきた。おばあちゃんは、わたしの真横くらいまで来たところで「やだ、赤信号なのに渡っちゃった」と呟いたのだけど、その声は独り言というには大きくて、なかばわたしに話しかけているような雰囲気があったので、なんとなく返事をしてみた。
「大丈夫ですよ、車ぜんぜんいないから」
と言ったら、おばあちゃんはニコッと笑った。やっぱり反応があることを期待していたのかもしれない。
「主人とケンカしちゃってね、朝の4時からお散歩してるの」とおばあちゃんは言う。その時すでに午前7時半で、わたしは少しぎょっとした。話しぶりはしっかりしていて身なりもお綺麗、何も心配することなどなさそうに見えるけれど、まだまだ肌寒くてコートが必要、しかも早朝は真っ暗なこの時期に、4時から散歩? 3時間半も、1人で?
「あらあら、そうなんですかあ」と答えながらも、わたしの頭の中ではいろんな想像が広がっていた。ケンカの末に家を出てきたということは、ご家族が迎えに来る可能性はあまり高くなさそうだ。そもそも、ケンカしたというのが真実かどうか、正直なところわたしには判別がつかない。よく見れば、おばあちゃんは片手に野花の束を握っている。空はやっと明るくなってきたところ。いつ、どこで摘んだのだろう。このまますんなり別れて、おばあちゃんを1人にしてしまっていいんだろうか。
「たくさん歩かれたんですね、お疲れじゃないですか? そろそろ帰れそうですか?」と聞いてみると、おばあちゃんは「大丈夫、大丈夫」と笑った。でも、「昨日は娘夫婦が来てね、お金の話をしてね、それでね……」まだ話し足りないみたい。
わたしは昔から、道を聞かれたり、中高年以上のひとに話しかけられたりすることが多い。バス停とか、駅のホームとか、そのへんの道端とか。この前は業務スーパーでおばあちゃんに「安いわよねえ」と声をかけられて、そのまま5分ほど立ち話をした。
誰かに道順を尋ねたくなったら、話しかけてもこちらを無碍にしなさそうな——無害そうな人を無意識のうちに選ぶものだから、つまりわたしは他人からそういうふうに見えているんだろう。実際の性格がどうかは別として。
というわけでわたしは今回も、おばあちゃんから無害な話し相手として選んでもらったようだった。光栄である。
彼女の語りには休みがない。娘夫婦とお金の話をした後に書類を書いたんだけど、ああいうのってどこに何を書けばいいのか分からなくって難しいじゃない? 記入欄がたくさんあるし、小さい文字もいっぱい書いてあるし。少し前にこういうことがあって、こういうお金が入ってくることになってね、それで娘たちが来てくれたんだけど、主人がああでこうでね。ケンカになっちゃったの。最近いろいろあるわよね。物騒なニュースも多いし。あの政治家さんの件もびっくりしたわよね。私はあの人のことをこう思ってたんだけど、ああでこうで。などなど。ここでは伏せるけれど、もちろん実際には「ああでこうで」ではなく、具体的な言葉がぽんぽん登場している。
わたしは基本的に人の話を聞くのが好きだから、純粋に楽しんだものの、同時に内心で「なるほど、これはご年配の人が悪徳ビジネスのターゲットになるわけだ」と納得もした。だってわたしからは何も尋ねていないのに、ものの数分で彼女の家族構成や最近入ってくることになったお金、政治的な考えなどを知ることができてしまったんだから。少し意識して誘導すれば、たぶんわたしはこのおばあちゃんの住所や電話番号、口座を持っている金融機関くらいは聞けてしまうだろう。見ず知らずの人に親しみをもって話しかけられるのは素敵なことだけど、心配にもなる。
おばあちゃんは時折「あなた、時間は大丈夫? これからお仕事よね。ごめんなさいね」と気遣ってくれるけど、だからと言って会話を切り上げようとはしない。誰かと話したい気持ちが伝わってきて微笑ましい。ただ、始業時間が迫ってきているのは事実。どうしようかなあ、と考えながら自転車を押してそろそろと歩き始めてみたら、おばあちゃんも「ごめんなさいねえ」と繰り返しながらなんとなくついてくる。いや、ついてくるんかい!
「さっき、そこのお花を見てたの」と、おばあちゃんは道沿いの細い花壇を指差して、ポケットからメモ帳を取り出した。油性ボールペンで花がスケッチしてあったから、思わず「あら、お上手ですね」と声が出た。ここでうまく受け流して立ち去れればいいのかもしれないけど、どうもそういうスマートな振る舞いができない。ついつい応じてしまう。
おばあちゃんは「ちょっと描いてみただけ」と謙遜しながら、「これ、あげるわね」と片手に持った野花を差し出してきた。いいんですか、と訊ねると、いいのいいのと笑う。
「もしお仕事に遅れちゃったら、迷子のおばあさんを助けてましたって言うのよ。嘘じゃないんだから。その通りだからね」
メモ帳から何枚か紙を破り取って、花束を作るように野花をくるみ、わたしの自転車のカゴに入れてくれた。最後に念のためもう一度聞いてみる。
「おうち、帰れそうですか? 大丈夫ですか?」
「だあいじょうぶ」
手を振るおばあちゃんの笑顔に背中を押されて、今度こそ別れを告げて、仕事に向かった。なんとか遅刻せずに出勤できました。